汐見橋Night
大阪ミナミの玄関口にして、1日あたり約22万人が利用する南海難波駅。和歌山の市街地から北上してきた南海本線と、真言密教の聖地である高野山からやってきた高野線が乗り入れる南海電鉄の本拠地だ。9面8線を擁する巨大なターミナル駅だが、戦前すでにこの規模の高架ホームで営業していたというのだからただ恐れ入るしか無い。
そんな難波駅から少し離れたところに、南海が持つもう一つの”ミナミの終着駅”がある。その名も汐見橋駅。同駅と岸里玉出駅間の区間は汐見橋線と呼ばれる支線の扱いをされているが、歴史的にはこちらが高野線の本線だ。現在も高野線の正式な起点は同駅であり、路線図においても汐見橋線ではなく高野線と案内されている。しかし、かつて高野線と直接つながっていた線路は高架化にともない分断されてしまい、現在では渡り線を介して南海本線と接続しているのみである。
本来の所属路線とは異なる路線にしか接続していない路線故に、その運用には特殊な扱いがなされている汐見橋線。そんな特殊性が垣間見える同線の終電の姿を追いかけてみよう。
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汐見橋駅 22時10分
汐見橋線の夜は早い。岸里玉出駅を21時45分に出発した上りの終電は9分後に汐見橋駅に到着する。
まばらな乗客は足早に改札を抜けると、ほぼ全員が右の方に曲がっていく。実はすぐ右隣に阪神桜川駅があり、ここで乗り換えればわざわざキタの梅田まで行かずとも神戸方面へ移動できる。現在の汐見橋線にとってこの乗り換え需要は無視できない割合を占めているはずだ。
このまま折り返しの電車が岸里玉出駅行きの下り終電となるのだが、その発車時刻は驚きの22時10分。コロナ減便ダイヤで終電時刻が繰り上がったという事情はあるのだが、いくら何でも早すぎだ。
同じ高野線のもう一方の終点、高野山の麓に位置する極楽橋駅の終電は21時47分の各停橋本駅行きなので、駅前の道路が片側4車線もあるような大阪市内の駅と駅前人口0人で和歌山の山中にある駅の終電が似たような時間帯に設定されているというおかしな状態になっている。
GFX50S GF110mmF2 R LM WR
そんな汐見橋駅だが、意外にも(失礼)有人駅で駅員が終日配置されている。駅長氏か助役氏か、時刻を確認しながら構内を歩いて回る姿が頼もしい。
いよいよ終電の発車時刻が近づいてきた。手元の腕時計で時刻を入念に確認し、件の駅長氏がさして広くもないコンコースをぐるっとひと回り。駅内部に乗客が居ないことを確かめた後は、表の道を注視してやってくる人の姿がないか様子を伺っている。
定時、22時10分。駆け込んでくる人影はない。駅長氏がまっすぐ右手を上げて出発の合図を乗務員氏へ送った。
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発車までに乗り込んだ乗客の数は、両の手に余るか否か...といったところ。一日を通して利用者は決して多いと言える数ではないが、それでも駅長氏は毎日こうして合図を送り続けている。
岸里玉出駅 22時44分
再び9分かけて4.6kmを走り抜けた電車は、高架を駆け上って岸里玉出駅6番線へやって来た。手早い客扱いの後、乗務員氏はおもむろに電車の進行方向を入れ替える。
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運転台の外に出て尾灯の点灯を確認すると、乗務員氏は電車を残して駅の階段を降りていってしまったではないか。
営業を終えた車両は駅に留置するのではなく、住ノ江の車庫まで回送されることになっている。車庫はこのまま直進した方向にあるのに、電車の進行方向を切り替えたのはなぜか。また、車庫までは誰がハンドルを握るのか。営業中は2両編成の小柄な車両がピストンしているだけの汐見橋線だが、終電後になると途端にディープな顔を見せ始めるのである...。
まず、進行方向を切り替えたのは、汐見橋線ホームからは住ノ江方面に出発することができないためだ。そこで、回送電車は渡り線を経由して南海本線へ転線。難波駅まで進出してから折り返し、住ノ江方面へと向かう。
次に、回送電車のハンドルを握るのは誰なのか...。汐見橋線は高野線のいち区間であるため、営業列車の運転は高野線系統の乗務員が担当している。しかし、ねぐらである住ノ江までは南海本線を走行するためなのか、回送電車は南海本線系統の乗務員が運行するのだ。
回送用の乗務員は住ノ江から送り込まれてくるのだが、到着までにはまだ少し時間がある。その間に、この岸里玉出駅の歴史を振り返ってみたい。
岸里玉出駅は岸ノ里駅と玉出駅という別々の駅を高架化の際に統合して誕生したのだが、高架化以前の高野線は岸ノ里駅で南海本線をオーバークロスして本来のターミナルである汐見橋方面へ線路が直通していた。
南海本線と高野線はもともと別の会社の路線だったためそういう配線だったのだが、会社の合併後は岸ノ里駅に渡り線を設けて高野線の車両も難波へと乗り入れるようになったのである。そして難波駅が南海本線単独のナーミナルから本線・高野線両線のターミナルへと発展する一方で、取り残された岸ノ里~汐見橋間の区間は細々とローカル輸送や貨物輸送に従事することとなる。と言っても、この時点ではまだ高野線と汐見橋線の線路は繋がっており、汐見橋線の運用上も高野線本線へ乗り入れるのは当たり前であった。
そして、高架化の工事の際に難波方面への渡り線が高野線の本線となりオーバークロスは廃止。オーバークロス付近にあった岸ノ里駅汐見橋線ホームは南海本線ホームの脇に移設され、高野線の線路が分断された現在の岸里玉出駅の姿が完成した。
妙に長い駅名だなぁ...という印象しかない現在の岸里玉出駅だが、意外と趣味的には面白い存在なのである。
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さて、そうこうしている内に回送に乗務するメンバーが住ノ江からやってきた。支線内はワンマン運転だが、南海本線上を走行する際は車掌も乗り組んでいる。自身の仕事場である電車の最後尾まで歩いてきた車掌氏はおもむろに立ち止まり、カッコよくラッチを指差喚呼。だが歴戦の角ズームは各部にガタが来ているのか、動きの渋い乗務員扉を開けるのに失敗した車掌氏は勢いあまってその場でズッコケていた。
22時44分、無人のホームに発車アナウンスが鳴り響く。出発信号が進行を現示しているのを確認し、運転士氏が静かにノッチを入れた。
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8062列車は本日も定発。駅員氏による見回りの後、汐見橋線ホームはつつがなく一日の営業を終えた。
天下茶屋駅 22時59分
難波駅へ到着した回送電車はしばしの小休止。汐見橋駅と難波駅の両ターミナルを行き来する唯一の列車だが、毎日の出来事に慣れてしまっているのか2両編成の異形な車両が現れても通勤客の視線が目の前のスマホから離れることはない。
難波で8061列車へと列番を変えて折り返した電車は、客扱いをしないため住ノ江まで全ての駅を通過する。営業列車が先行しているためフルノッチでかっ飛ばす...とはいかないが、それでものんびりとした支線での走りとはえらい違いである。
天下茶屋駅ではちょうど停車している対向列車とすれ違う。今でこそ全列車が停車する当駅も、角ズームが22000系として高野線を走っていた頃は普通と各停しか止まらない駅であった。
前照灯のスポットライトを浴びて、往時のように駅を通過していく2200系。ハンドルを握る乗務員氏の目に映るのは過去か、それとも現在か。角ズームを追いかけて振り向いたホームは閑散としていて、まるでかつての鈍行しか止まらない駅であるかのようだった...。
住ノ江駅 23時04分
再び岸里玉出駅まで戻ってくると、いよいよ複々線区間へ突入する。急行線をしばらく走行し、大和川が近づいてくると目的地の住ノ江検車区はすぐそこだ。
しかし、残念ながらまたしても配線の関係で下り線からは検車区へ直接入庫することが出来ない。そのため、難波からやってくる回送車両はまずは隣接する住ノ江駅へ入線する。
現行ダイヤでは汐見橋線の回送は住ノ江2番線に到着するのだが、平日ダイヤでは隣の3番線でラピートの回送が先に入庫待ちをしており、正攻法で写真を撮るのは厳しいものがある。コロナ減便前はこのようなダブルブッキングが生じなかったため、汐見橋線の回送が3番線を使用していたのだが...残念だ。
GFX50S GF45-100mmF4 R LM OIS WR
この後、ラピートは難波方面へ出発。シザースクロッシングを渡り、検車区内の折り返し線で折り返しのうえ入庫となる。非常にいやらしいことに、ラピートが出発すると同時に汐見橋線の回送も発車。住ノ江駅和歌山市方の折り返し線を経由してねぐらへと帰っていく。つまり、どう頑張っても対向ホームからではラピートが邪魔なのである。
ただし、時刻も列番も異なる休日ダイヤなら話は別。ホーム中程の2両停目は光も十分に回るため、車両の端正な姿を収めることができる。
GFX50S GF45-100mmF4 R LM OIS WR
これにて汐見橋線を走る車両の一日に幕が下りた。明日は高師浜線か、はたまた住ノ江予備か。これからも都会を走るズームカーの日々は続く...。
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汐見橋線は西成区を走ることもあって、”ディープな路線”と評されることがしばしばある。しかし、西成とくればディープ、そういう安易なキャッチコピーに靡くのは少し待っていただきたい。
そういう”ディープな”西成を象徴するいわゆるあいりん地区とか釜ヶ崎と呼ばれる地域は新今宮駅周辺であり、工場と住宅が立ち並ぶ汐見橋沿線の下町はステレオタイプ的な西成のイメージとはちょっと違うのではないだろうか。
汐見橋線をしてディープと呼ばしめるものがあるとしたら、それはそういうレッテルではなくその運用であろう。今や時刻表から読み取れるのは1編成の電車がピストン輸送に徹する光景だけだが、一皮むけば電車が面白い動きをしている...そういうところこそディープなのではないか。
被写体として登場してもらったオリエンタルグリーンの復刻塗装を纏う2200系2231Fは惜しくも勇退するが、汐見橋線は今も変わらずそこにある。休日の午後、いつもの難波駅から帰路につくのではなく少し歩いて汐見橋駅を利用してみる...テツならそういう楽しみ方をしてみるのもまた一興。是非ともそんな小旅行でリアルな汐見橋沿線の姿を感じていただきたい。