2024/12/14 4076レ EF510-13
EOS-1DX3 EF24-105mm F4L IS II USM
江戸時代の交通手段といえば徒歩が主流であり、主要な街道沿いには宿場が置かれ駅逓事務を取り扱った。ところが文明開化により車両による交通が導入されると事情は一変する。当時の車両とえいば人馬または蒸気機関を動力とするものであり、勾配にはすこぶる弱い。道路にせよ鉄道にせよ勾配緩和が不可欠であるから従来の街道筋とは異なる経路を採用することも珍しくなかった。その結果、ある宿場町は明治時代の国道沿いから外れたことで利用者が激減。また別の宿場町は鉄道敷設に反対した結果物流ルートから孤立・・・と多くの宿場が時代の荒波に飲まれて寂れていったのである。
その重要性から官設鉄道の中でも北陸本線は早期に整備されたため、北国街道の各宿場町は早々に試練に直面することとなった。長浜から柳ヶ瀬・栃ノ木峠を経由して越前国へ至る北国街道に対して北陸本線は長浜から塩津を経て敦賀へ至る経路で建設される予定であり、街道筋が敦賀港を中心とした新たな物流スキームの外に置かれてしまうためだ。しかし、勾配緩和に有利であることや沿線人口を鑑みて敦賀までの鉄道は柳ヶ瀬経由の北国街道ルートを採用することが土壇場で決定。栃ノ木峠周辺の山中にある宿場はともかく、概ね街道筋は物流の中枢に留まったことからその命脈を繋いだのであった。
さて、敦賀からさらに北へと向かう鉄路は現在北陸トンネルで一気に今庄へと至るが、当初は越前海岸沿いの険しい勾配をスイッチバックで克服する杉津経由のルートであったことは非常に有名である。その山越えに挑む越前側の拠点として整備されたのが鉄道の今庄駅であった。当地には今庄機関区が置かれ、補機の増解結をした関係から駅には優等列車も停車した。北国街道の時代から宿場町として栄えた今庄は、明治以後もなお鉄道の町として栄えたのである。
そういう訳で今庄は寂れずに済んだのであるが、補機の増解結の時間などたかが知れているのであるから乗客が町へ繰り出し観光地化することも無かったのであろう。かつて杉津越えの補機として活躍したD51が静態保存されている住民センターに車を置いて周辺を散策してみると、今でも町並みにはかつての面影が残されていた。
町外れでふと目をやると、国道沿いに「北国街道 今庄宿」と書かれた灯籠というか・・・櫓というか・・・モニュメントが設置されていた。近年に設置された物であることは明らかだが、なかなかどうして味があるではないか。折しも百済行きの貨物列車4076レがそろそろやって来る。迷わずカメラをバッグから取り出した。
町中であるからして周囲はゴチャゴチャしているのだが、立ち位置を微調整してなるべく人工物を排除。メインのモニュメントはオフセットして紅葉が僅かに残る木々を背景に据えると、冠雪した尾根がチラリと見える。う~ん、なかなかいい感じ!この地に息づく交通の歴史に思いを馳せて、鉄路を南下するレッドサンダーをスローシャッターで切り取った。
撮影後は近隣のお店で今庄そばと洒落込んだ。立ち食いそばの発祥は今庄駅だそうだが、僅かな停車時間に蕎麦を饗したのが発端なのだろうか。そこまでするほど賑わった今庄駅も、北陸トンネルが開通すると補機基地としての役割を失い優等列車は通過となった。冒頭で紹介した北国街道沿いに敷設された柳ヶ瀬経由の北陸本線は、塩津経由の現在線開業後は柳ヶ瀬線として存続しながらも赤字のため10年ほどで廃止されている。これが生き残った旧街道沿道の現実だ。
人貨を目的地まで高速で輸送する車両交通の時代になると、徒歩のペースに応じて設けられた宿場町は過剰な設備であり、利用する意味がない以上ただの通過点でしかない。北国街道沿いには鉄道も国道も建設されてヒト・モノの流れとしては今なお健在だが、宿場町としての命運は車両交通時代の幕開けとともに決してしまったのだろう。そう考えながら啜る蕎麦湯はなんだか淋しい味がした(蕎麦の出汁を入れ忘れたため)。
